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(僕が高校ぐらいで書いたと思われる)プレゼンについてのメモ

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このメモは僕が高校生ぐらいに書いたと思われるメモのコピペ。 よくプレゼン・会話のテクニック?を聞かれるが、実は僕自身これといったプレゼンの経験は無い。しかし、この考え方やアドバイスが的を得ているらしく、自他共に認められるときがある。澤さんのプレゼンのプレゼンを聴く機会があったがへぇというよりも共感がほとんどだったので合っているのかもしれない。大学でも2,3回これが必要とされる機会があったので備忘録に。 高校生が書いた。箇条書きかつ抽象的で(本人にしか)分かりにくいところがほとんどなので気になった部分があったら言ってね。直接話しましょ ---------------------------------------------------------- アイデアとプレゼン ゴールから考えることの重要性。僕の考えでは最終的な発表がプレゼンであるとき、ある程度の情報が集まったなら、まずはプレゼンの完成予想から考えてみる そうするとどんなものを発表する場合でも、物事の論理性や、ストーリーが出てきて、まず自分の自信が高まる、次に相手に伝わりやすい(悪い言い方をすれば相手を騙すことができるの!) プレゼンのゴール プレゼンのゴールを考えたとき、観客のHappy(利点)が最終的な伝えたいことになる(e.g.この商品によって従来よりも効率が2倍に!→あなたの自由時間を3時間増やします!) ここでは観客を考えることになる。観客の期待(記憶に残ること)と商品の説明は違う(e.g.車の宣伝 「このフェラーリのスペックは....ウダウダ...」→「あなたのいつもの通勤が変わりますよ」 本質はスペックよりも体験を売っている) そして、観客が持ち帰るものはなんだろうか。(実は商品を買ってもらうことが全てではないんですよね...) プレゼンスライドについて 文字、色は?(意味を考えられる?) 言語、改行(日本語、英語、アラビア語、エヴァンゲリオン) 相手の視点は?(白紙から文字矢印まで 上から下、左から右?スライドだけでなく発表者の動作も影響) 写真いる?(意味のない写真、微妙な写真、余計?) そもそものプレゼンの順番については別紙で プレゼンスタイルについて データと裏付け 実際の体験(デモ) 必要なら、初めにアイスブレイクとして質問をする。あるあるを言

読んでいない本について堂々と語る方法

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読んでいない本について堂々と語る方法  このタイトルだけで誰もが興味を持つはずである。そして興味を持ったその多くが読書に疎いという面白いことが予想できる。これはそんな彼らに自信をもたらせてくれる本である。 この本は 3 つの章に分かれている。順に書いておこう。 ・No.この章のテーマ ・”自分でこの章をまとめてみました 文” ・感想、メモ 1.”読んでいない”とはどういうことか ”逆に「読んだ」ということはどういうことだろう?本って絶対的?永久変わらない?そう、ここに書くぐらいだから違うってこと。本の中身は意外にも時間に対して、あるいは人に対して常に変化しているのだ。絶対的な本や読書はない。だから、「読んだ」と簡単に言い切ることはできないのだ。 (世間でよく言われる)本を読むことが本当に良いことなのか?正しいことなのか? これも違うかもしれない。読むことによって自分の考えが侵されている事実に気付くべき。読まないことで自由な独創的な客観的な思考ができる(既にしている)ことをもっと重要視し、認められるべきだ。 従って、読んだ、そうでないに関わらず、我々はすべての本に対して「読んだ」と「読んでいない」の中間地点にいるといえる” memo ・読んでいないということ? →本書では「全く読んだことがない」「流し読みをした」「人から聞いた・有名な 本」「読んだが忘れた」の4つに分ける。 ・本、知識は全体から考えること。全体からの位置付け。(P30) ・教養があるとは?無教養とは?(P33) ・この本に頻出する「共有図書館」の定義(P35) ・作品に入り過ぎないこと(批評)、読書法(P62~65) ・その作者の他の本は知っているのなら類似点はあるよね(P78) ・書物の自己投影的性格。時間が経てば自分の中ですら本は変化する。(P85~86) ・”1-4読んだのに忘れちゃった”(P88~)多くの人の最大の共感ポイントか。偉人たちも我々と同様な経験をしていたという驚き。だからこそ、そこまで詳細に読む価値ある?といったぐあい。 もっと深刻な偉人の症状「読んだこと忘れちゃう」ことだってある。  それに加えて「引用と自己引用の区別が付かない」(過去の)自分自身に対しても他者となってしまうということがあるよね(P96)  ・忘れること、読書も同じ。学校

2020年3月から再始動(読む価値なし)

*この記事は区切りなので読む価値ないよ このbloggerが2019年の2月に開設されていたらしい。1年間、正直これは半分黒歴史に足を突っ込んでた感があるけど、自分の成長と環境が変わってきたのでまた始めようかな。 続かなかった理由 ・見た目を気にした  他人に見てもらう気ゼロと言いながら結局気にしてたので、自他共に納得できるようなネタや文章ができないと書かなかったし、アップしようとしなかった。文章の統一性など本質以外に結局は気がそれていた。 ・頭の中で自己完結  そもそもこの場を用意したのはあまりも自分の思考やアイデアが思いつき過ぎてそれらを残しておくためだった。でもこれまではそれらを頭の中で自己完結してしまうことが多くなっていた。 ・日本語が面倒  頭の中での自己完結に済ませておくときの利点はプロセスを一つ一つ論理的に文章にする必要ないことである。この間、 書くことがなかったわけではない、タイトルだけの下書きは50本以上にあった。でも、それらの処理から逃げようとしていたんだろう。 これから再始動するよ  じゃあなんで、復活するの?  自分の変化。ここ数か月で周りの人のおかげで自分の成長が促されてしまった。自分の価値観がさらにアップデートされた。(このことについては文章にするのは難しいけどあとで書こ) これらによって要らないこだわりや外からの視線が消えて、例えばこのblogが書きやすくなった。そしてもう一つ。僕のことと僕の考えを認めてくれる人が出てきたの。最近はそのひとたちに動かされている気がする。 自信の向上と、対人で始めて思考を明解にする必要性が出てきた。 まとめ 1日1つ更新などどうでもいい縛りと真似にこだわるのはやめだ 文章の気配りもやめだ。 ネタの選別なんてしない 好きなように書く。自分らしくて良いし、変な誤魔化しは結局無力である。かくしきれないんだよね。 まぁこのクソみたいな文章に嫌気がするw